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2008年04月25日

速まるスピードと、わたしカンカク。②

前回の①に続いて考えたことです。

以前は、
「自分の存在」というものは
わたし的には「個」であり、1つのものだったはずなんだけど

最近は、
自分は物理的現象としては「1 / 個」であるけど、
実は1つではなくて、3つくらい(もっとかも?)で成っている?

という感覚で日々過ごしているのによく気付きます。

気付くわたしは誰?って感じなんですがね。
(あ、分裂しているわけではないですよー困ったな

もともとあった「本来の自分自身」が
今を生きていく(為の)この「カラダという道具」に乗って
その結果、それ相応の「心(人格)」が形成されて
目の前の現実を日々生きている、

みたいな感覚なんです。

で、何かあると、自分の中で

普通わたし(心):ねぇ、アンタどー思う?

ニヤリ本来の自分自身:んー、知らん。
           でもま、いいんじゃない、それで。

てな感じで、時々はカラダ様にもお伺いを立てながら
えっちらおっちら日々を過ごしてる感じです。

以前はよく
「自分と向き合う時間」と称して
似たようなことを意識してやってたような気がしますが

今は無意識に、頭で考える間もないまま
そういう感じになってしまいます。


さらに、こんなことを書くと
「タイヘンだ!病院へ行ってください!」
と思われそうですが

先ほどの

本来の自分自身:んー、知らん。
           でもま、いいんじゃない、それで。

というパートが出張して?

庭のアラカシの木が、
窓から見える塀にとまったスズメが、
その台詞を言ってるような・・・

そんな感覚に触れることがよくあります。

アラカシの木も、スズメも、もう1人の自分?

なんじゃそりゃ~ですかね。

まぁそんな気がしているだけで
実際に耳に聴こえたりするわけではないです。

多分自分の意識が鏡のように、木やスズメを通して
反ってきただけの話ですね。

しかしそう思うと、結局目に見える全ての現象は
自分自身の世界を反映しているんだろうかー?と
宗教チックな考えに行き着いたりしています。

そして、
自分の存在って何なんだろう?

と、こどもの頃のように(宇宙の果ては?裏側は?みたいな)
懐かしい思考ゾーンに浸ってしまいます。

ただ、行き着く思いはこどもの頃とは違いますね。

こどもの頃は、自分の存在を考えたときに浮かぶ、
未知の世界への恐怖と、ほんの少しの好奇心で
頭も心も漠然と不安な気持ちに満ちてしまってました。

それは多分「死=闇=無」みたいなイメージがあり
自分自身の消滅を恐れていたからかもしれません。

しかし今は、自分の存在は小さいけど、一瞬にして広がる、
自由自在なものなのかも?
時間とか、次元とか、関係ないところで
そこに漂っているものなのかも?

と、不思議な感覚だけど、恐怖や不安ではなく
静かで安らぐ場所にいる自分をイメージするようになりました。
(これは坐禅や瞑想の影響だと思います)

だけど、イメージするだけで、その先が分かりません。
そこからどうなるのか、どうするかは、想像出来ません。

分からないまま、たどり着けないまま、また、
現実世界の「生」とか「死」とか根源的なものへ振り出されます。

そうやって「わたし」を何度も繰り返してきたんでしょうかね。

③に続く




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